第3話 見えない病巣(前編)

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「ちょ…わ…ちょっと…八幡さん…ストップ!ストップ!…ひゃっ!」
松島のコップから、注いだビールがダクダクとあふれ出した。突然の悲鳴に居酒屋中の視線が集まる。
「え……あ!わっ!…すいません!おしぼり!おしぼり!」
八幡は必死にテーブルを拭こうとして、今度は自分の手元のお冷やを倒しそうになる。
UV対策のためか常に長袖の松島の服の袖は、少しビールでぬれてしまった。
「八幡善郎、一生の不覚です!あー、どうしよう…クリーニング出して下さい。ほんと申し訳ない」
財布を出そうとする八幡を松島が押しとどめる。
「いえ、大したことないですから。帰りまでには乾きますから」
松島は濡れた袖をテーブルの下で拭くと、ブラウスの左袖を肘のところまでまくり上げた。
「あー、ごめんなさい。じゃあ、今日はホント好きなだけ飲み食いして下さい」
「いいんですか、わたし、割と食べますよ」
「食って食って!じゃんじゃん飲んで!」
松島は小さくかんぱーいと言って、こぼれそうなビールを恐る恐る持ち上げた。
八幡もぐっとビールをあおる。そして、そのまま大きくため息をはいてうつむくと、数秒のあいだ顔を上げることができなくなった。
久々に緊張が解ける瞬間である。
ここ数日、まるで雲をつかむような調査を続けてきた。
存在していない“info”メールと架空のポイントサービス受付…それがなぜ起こったのかについて、原因の究明を上山から命じられたのである。
ポイントサイトのログイン回数がゼロの顧客は、すべてサービスを受付けたか電話確認をとった。だから、クライアントのOAメーカーに渡っている顧客リストは今のところ100%クリーンだ。
今後、メールサーバがダウンしない限り、存在しないinfoアドレスはサンクスメールが見つけてくれるだろう。
だが…ヒューマン・エラーか悪意による捏造かはわからないが…コールスタッフによってつくられた根も葉もないinfoアドレスが『たまたま存在した』場合の対策がなされていない。これが出来なければ、同じような架空受付が発生するリスクは今後もなくならない。
調査の結果…架空受付がいつから始まったのかも、誰がやったのかも判明している。しかし、誰か特定の犯人がいるというわけではない。どのコールスタッフも均一に『エラー』しているのだ。
目の前の松島も、実は何件かの『エラー』の当事者である。
服をビールで汚されても八幡を責めない…ただ控えめに笑っているこの人が…果たして故意に不正などするだろうか。そもそも、彼女は営業成績もKPIもすこぶる評価が高い。頭も良さそうだし、ズルが発覚して被る損失を計算できないはずはない。
純粋にエラーなんじゃないのか…?
オペレーションに問題があって、不可避的に誰にでも発生するミスなんじゃないのか?
生来、八幡は他人(ひと)を疑うのが苦手だ。
彼の良心は、コールスタッフよりも自分の作った業務マニュアルを疑いはじめていた。そのほうが気楽だった。
もし、一連の『エラー』が故意だとすると金本は嘘をついていることになる。あのITに弱くて、不器用だが律儀そうな70代のじいさんがだ…。
架空受付の一番古い履歴は、自称ミュージシャンの岩波章人である。
30過ぎのパンクスである岩波は気が短く、要領はいいが不真面目なところがある。彼が不正の起点であることは考えられなくもない。
しかし、問い詰めたところで、金本と同じ抗弁をされたらそれ以上の追求は難しい。1日100件とか150件とか荷電すれば、そのうち何件かミスが出てくることはあり得なくもないハナシだ。代表アドレスのアカウントがinfoの企業なんて死ぬほどあるんだから。
こんな犯人探しみたいなことはやめたかった。
明らかに八幡には向かない仕事だ。
こうしてコールスタッフひとりひとりを居酒屋でご接待しているのも、実のところ調査の一環なのだ。
従業員の情報を集めるために、トリノ・ガーデンではよく用いる手法だった。彼らの仲間として溶け込んでしまうことによって、上山が実施した業務改善の反応を末端の係員レベルで知ることができる。
こんなスパイじみたことをしているからこそ、八幡は聞き取った従業員の苦悩や悩みに全力で応えようとする。良心の呵責は、八幡を従業員たちの仲間たらしめた。
だから、八幡の想いとは反対に、上山はこの仕事から彼を外そうとは考えていない。彼より適役の人材はトリノ・ガーデンにはいなかった。
とはいえ…。
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大きくため息をついてうつむいたまま、八幡は顔を上げない。
もう数十秒になる。
「あの…八幡さん?」
「え…!」
驚いて顔を上げると、八幡は周囲を見回す。
自分がどこにいるのか、一瞬認識できない。
「お疲れなんですね…」
眠ってしまっていたのだ。
「あ…あー…、すいません…。私からお願いして来てもらったのに…失礼なことばっかり…」
「何かあったんですか?」
「え?」
「いえ…ここのところ、八幡さんずいぶんお忙しそうだったんで」
「ああ…まあ、ですね」
「オペレーションルームを横切って、奥のオフィスを何度も出たり入ったりしてたでしょ?スタッフのあいだで噂になってたんですよ、絶対になんかあったんだって」
「あー…、すいません。ご心配おかけして…」
「あの…」
「はい」
「“info”メールのことですかね」
八幡が身を乗り出す。
いっぺんに眠気が覚めた。
「なにか知ってるんですか!?」
「やっぱり…」
「あ…」
悟られてしまった…この人だって、不正の当事者かもしれないのに。
やっぱ向いてないんだよな…腹にいちもつ抱えてするような仕事は。
自己嫌悪で落ち込む八幡に気がついて、松島が頭を下げた。
「すいません…変なこと聞いちゃって」
「あ…いえ」
「金本さんが“info”メールのことで呼び出されたって聞いたんで」
「えー、内密にしてって言ったのに」
「べつに金本さんからしゃべったワケじゃないんです。呼び出されたことが知れ渡って…結局、聞かれれば答えるじゃないですか」
人の口に戸は立てられないってことか…。
ちょっとオフィスに呼んだだけのことが…人は思った以上によく見ている。もっと注意すべきだった。
「私も…疑われてるってことですよね」
「え…」
考え込んでいた八幡は動揺する。
ズバリ核心をついた問いを投げられてしまった。
「私にだって…同じような間違いが何件かあるかもしれません」
「あ…でも…わざとじゃないんですよね?」
「もちろんです」
八幡の良心に圧しかかっていた負荷が軽減する。
そうなんだよ…。
皆がみんな、口裏あわせて不正やってるなんてあり得るわけがない。
「この件はですね…故意による不正か単なる失敗か判断が難しくてですね。今後はこうしたことが起こらないよう、オペレーションを改善して対処してまいりますんで…。だから、松島さんが気に病むことは少しも…」
「あの…八幡さん」
「はい…」
松島の意を決したような眼差しに、八幡は少したじろぐ。
「私、持ちかけられたことがあるんです」
聞きたくない…八幡の良心が本能的に拒否した。
「受付件数を水増しする方法を…教えてやろうかって…」
また…他人を疑ってかかる日々が続く…。
心が救われかけた八幡にとって、それは途轍もない重荷に感じられた。

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