第5話:神のオペレーション
「ありがとうございます!」
工場内に藤沢の声が響き渡る。
包装機の作業者が振り返るくらいだから、よほどの大声だ。誰もいない空間に向かって頭を下げていた藤沢は、急に恥ずかしくなって工場の外へ歩き出す。
「やっぱりあれが効いたと思うんだ、異物混入率…新オペレーション導入前との比較で…えーと、1942分の1」
電話口の西脇の声も明るい。
栃木工場は改善前と比べて、およそ2000分の1程度にまで異物混入率を下げていた。約30年に1個という超低確率である。
「会議室でも笑いなんか起きちゃってさ…会長なんか『もう、ゼロと一緒だよね』なんて言ってたから」
「でもまあ…結局のところ理論値なんですよ」
「いやいや、ご謙遜。私も安心したよ」
…理論値なのだ。2ヶ月前から、ハニーモンスターの生産ラインでは異物混入商品はひとつも発見されなくなった。この結果を公表すると、工場の従業員はみな万歳せんばかりに大喜びした。
しかし、藤沢だけは一人悩んでいた。『発生しない』異物の発生率を、前月比で何パーセント減と表現したらよいのか?異物発生ゼロと言い切ってよいはずがない。来月1個現れるかもしれないし、2年後に1個現れるかもしれない。30年後かもしれない。
神ならぬ人間のすることだ。永久に異物混入品が現れない保障などどこにもない。その一方で、Kawaii堂には納得してもらわなければならない。異物混入品が市場に出回る確率は、限りなくゼロであると。確たる根拠に基づいた数値を提示しなければ…。
結局、個々のワークセンターを試運転して評価した。
残業を強いられた従業員は不満顔だったが仕方ない。各工程、月に3回程度の計測。改善といっても限界があるから、異物混入の確率はある一定の値に収束してゆく。ある工程では、新オペレーション導入前の約3分の1が限界であったり、またある工程では4分の1であったりした。
ここから導き出された全工程終了後の異物混入率。新オペレーション導入前との比較で1942分の1。
「はい…はい…失礼します!」
藤沢はまた誰もいない空間に頭を下げると、工場用に支給されたガラケーをパチンとたたんだ。社長室の前に立つ。
深呼吸してドアを開けると、宇都宮の社長を正面に、各ワークセンター責任者と上山らが集められていた。みな、固唾を飲んで藤沢を見守っている。
「ハニーモンスターの生産ライセンス、継続が決定しました!」
歓声が上がる。抱き合っている者もいる。
上山に歩み寄り、藤沢は頭を下げた。
「上山さん、ありがとう。あなたのおかげだ」
「いや、藤沢さん…これからですよ、大変なのは」
藤沢は顔を引きつらせる。
「勘弁してくださいよ、少なくとも…もうしばらくは」
はじめて声をあげて、上山が笑った。
夜は工場内の食堂に集まって、盛大な慰労会となった。従業員の家族も呼ばれ、用意された瓶ビールが飛ぶように消えていく。
「良かったよ、残念会にならなくて」
厨房のおばちゃんが銀歯を見せて笑う。
藤沢と上山の周りには人だかりができた。従業員と家族たちがひっきりなしにお礼を述べ、握手を求めてくる。コップが空きそうになると次々とビールを注がれ、酒に弱い藤沢は少々辟易した。
上山のやり方を一番ネチネチと批判していたワークセンター長が、その上山の手をとり泣いて感謝している。藤沢はつい笑ってしまう。
人ごみを縫って、上山が藤沢に近づいてきた。
「藤沢さん」
「あ、はい」
「明日、東京に戻ります」
「え・・・」
「え…」
藤沢は一瞬、耳を疑った。そんな急に…慰労会の真っ最中に…。
「いや…そりゃ…ちょっと困りますよ」
「並行して他のプロジェクトも抱えていまして…Kawaii堂様とは異物混入ゼロを達成した時点で、業務終了という契約になっておりましたので」
引き継ぎは?後任の責任者は?第一…今後、どうしたらいいのか?
上山は食堂を見渡した。従業員たちは美味しそうに酒を飲み、笑い合う。その顔は達成感と自信に満ちあふれている。
「この工場はオペレーショナル・エクセレンスに達しました」
他社に対する競争力と優位性の獲得…藤沢は驚いたことがある。
この数ヶ月、工場内の仕掛かりや在庫、月々の売り上げ、さまざまな指標などを上山に言われるがままにチェックしてきた。藤沢と上山がこの工場の改善に着手してから…特にあの非人間的な業務マニュアルを実施に移してから…工場の負債は減り、出荷数が明らかに伸びていた。
機械か奴隷のように従業員を使役しているのだから、当然だ。藤沢は最初そう思った。
しかし、手数の増えた従業員たちは、むしろ以前よりも落ち着いて仕事をしているように見える。一個一個の工程が確実に終了し、よどみなく次の工程に引き渡される。ロスもなければイレギュラーもない。仕事のペースを乱されることもなく、無用なストレスもない。まるで適度に油をさされたいくつもの歯車が、音もなくかみ合って回っているかのような…。
ひとつの精密機械となった工場は、悩むことも急ぐこともない。ただ静謐に運転を続ける。
「とりあえずは、この状態を維持すればよいでしょう。ただ、それはとても難しいことです」
「そりゃそうですよ、この状態は薄氷の上に保たれているんですよ。遊びなく緻密に組まれた工程ですから、ひとつのトラブルが一瞬で連鎖します」
「そうですね、一瞬でガタガタだ」
「ハンドル操作を数ミリ誤っただけでカッ飛んでいく。F−1マシンみたいなもんですよ。誰でも運転できるもんじゃない」
「いや、できますよ」
「誰が」
「あなたが」
「…」
「あなたならできます」
前にも同じようなことを言われた。できるものか…藤沢はそう思う。前よりもいっそう自信がない。これほど圧倒的な仕事をされては…。
「この数ヶ月で、藤沢さんに伝えるべきことはすべて伝えさせて頂きました。あとはOJTしかありません」
「自信…ないですね」
「私も永久にこの工場にいられるわけではありません。そして残念ながら…Kawaii堂、カフェレストランツ、宇都宮パティスリーを通じて…この業務に堪えうる経験と知識を持つ人物は、藤沢さん、あなただけです」
そうなのかな…と、少しだけ藤沢は思ってしまう。いかん、また貧乏くじを引くハメになる。上山はハナシがうまい。
「せっかくここまで漕ぎつけた工場が…あなたの決断いかんで元の黙阿弥です」
「そんな…私には無理です」
「ひとつさ…藤沢さん」
思わぬところから声がかかる。宇都宮パティスリーの社長が、横でニコニコとビールを飲んでいる。
「社長…」
「藤沢さんさ、ひとつ…やってくんねえかな」
社長が頭をさげる。
「やめて下さい、社長」
従業員たちが藤沢を取り囲むように集まってきた。
「できる限りサポートするよ」
「なあ、残ってくれるんだろ、藤沢さんよ」
「いやぁ、嫌とは言わないよ…そういう人じゃないもん」
従業員たちも順々に頭を下げた。泣きそうになってしまう。あー…これはもう逃げられない。藤沢は眉を下げてため息をつく。しばらくは東京に戻れないな。
「じゃ、あの…社の許しが出れば」
歓声と拍手が上がる。上山が藤沢に握手を求める。
「神様になって下さい」
「え?」
「この工場の神様に」
…どういう意味なんだろう。最後の最後まで宿題を負わされた気がしたが、すぐに問い返すことはしない。困っても、もう上山に尋ねることはできないのだ。
藤沢は微笑んで、上山の手をぐっと握り返す。
困難を笑って、鷹揚に受け入れる余裕が藤沢にも生まれていた。
翌日、上山は岐阜を発った。そして、藤沢の宇都宮パティスリー出向が引き続き認められた。